第9回 都市の発達と庶民の動き


◎新しい村の成立

室町幕府=有力守護との連合政権という図式は前回解説した。幕府は絶対的な力を持っていないため、当然財政も厳しいものだったらしい。そこで幕府は、租・庸・調の税負担の他に、関所を設けて通行税と称して関銭をとったり、農民の家ごとに棟別銭、田畑に課税する段銭、高利業者に課税する倉役・土倉役、港に入る際には津料、そして、守護に対しても献金をさせるというなりふり構わぬ収奪を繰り広げていた。この二重三重の収奪に対抗して、農民たちは有力な名主を中心に村ごとに団結し、自治を行なうとともに、非常の際には武装して領主と戦う組織「惣」を形成した。ちなみに、非常の際とは、領主が税の徴収を強制したり、武士たちの戦乱から村を守らなければならないときなどを指す。

「惣」では全百姓が参加する寄合という会議で、村の法律や、公共の事などを決定し、また、寄り合いの決定に背いた者の処分の法も決めた。さらに有力な惣は、領主に対する年貢を「百姓請」「地下請」という、年貢を村の自治機関が徴収して領主に納める制度をとり、村内に領主の役人を置かない制度をかちとり、自治をより強固なものとしたところもあった。

◎農民の反乱!?

惣がしっかりと機能し始めると、農民は団結して自分たちを苦しめる高利貸・領主・幕府などに対して、武力で対立するようになった。これを土一揆という。

その外に様々な一揆があるのだが、代表的なものは以下の3つ。


★KEY-POINT

  1. 正長の土一揆…1428年。近江(滋賀県)の坂本の輸送業者であった馬借が徳政を要求した事件に始まり、山城国(京都府)の農民も参加し、京都の土倉や酒屋を襲った。さらに一揆は大和(奈良)などにも波及する大規模なものになった。この正長の土一揆は領主や幕府に民衆の力を示した最初のものといわれている。
  2. 山城の国一揆…1485年。南山城の国人(土着の武士)・土民らが守護の畠山氏一族の争乱を追払い、36人の月行事が8年間南山城を支配した。その後、月行事の対立により瓦解。
  3. 加賀の一向一揆…1488年。加賀(石川県)の一向宗徒が富樫政親と結んで政親の弟を破る。1488年には守護の政親に敵対・敗死させ、1580年の石山本願寺一揆の降伏まで役100年間、国人・農民の寄合が加賀1国を自治支配した。

以上だ!絶対に覚えろ!!

◎応仁の乱、そして下剋上

足利義満の死後、各地の守護大名の力がますます強まり、互いに争うようになった。とくに山名持豊(宗全)と細川勝元との勢力争いが激しく、これに8代将軍足利義政の後継ぎ問題や畠山氏や斯波氏の相続問題がからんで、1467年、応仁の乱が始まった。この乱は細川勝元の東軍と山名持豊を中心とする西軍にわかれ、京都を中心に11年間も続いた。この間、各地の守護大名も自分の領地を守り、あるいは奪い合ったりしたため、戦乱は京都から諸国に広がっていった。

この乱の影響は以下の3つにまとめられる。@京都とその付近は戦乱で焼け野原となり、重要な文化財が失われた。公家や僧の中には、戦乱をさけて地方の大名を頼っていくものが多くなり、これによって中央の文化が地方に広まった。A乱により、朝廷や守護大名の権威は地に落ちて、公家・寺社などの旧勢力もほとんど荘園を失って没落した。B、Aにより下剋上の世の中が始まった。下剋上とは、身分が下の者が上に勝つという意味。世は家柄よりも実力本位の戦乱時代になった。これを戦国時代という。

戦国時代に生息していた生物に「戦国大名」というのがいた。この戦国大名、幕府や朝廷の支配を認めず、領国の土地と人民を一手に支配した新しい大名なのだ。


★KEY-POINT


B分国法について。戦国大名が領国を治めるため、武士や農民が守るべき法律を定めたもの御成敗式目が基本となっている。

◎鎌倉文化と室町文化を区別しよう!

  1. 鎌倉文化…武士らしい素朴で力強い文化。
  2. 室町文化…武士が公家の文化を取り入れた静かで味わいの深い文化(禅宗の強い影響)。
    ・金閣…足利義満が京都北山に建てた別荘
    ・銀閣…足利義政が京都東山にたてた→東山文化
  3. 書院造り、庭園、水墨画(雪舟)、生け花、茶の湯など、今日の生活に受け継がれているものが生まれている。

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