第10回 ヨーロッパ人の来航とその背景


◎「すべてを神に捧げよう」の帝国は当時の先進国

地理で学んだように、西アジアはイスラム教の世界だが、その成立は7世紀にさかのぼる。


★KEY-POINT

  1. 7世紀のはじめ、マホメットがイスラム教(回教)をおこす…ただひとつの神アラーと経典コーラン。
  2. アラビア人を中心としたイスラム教徒は、西アジアから北アフリカ・イベリア半島にかけての大帝国を形成…首都はバグダッド。

イスラムとは「すべてを神に捧げる」という意味で、コーランとは「読むべきもの」という意味。このイスラム帝国で栄えたイスラム文化は、現在我々が使用している数字(アラビア数字)をつくったり、天文学や化学などの自然科学などが発達した。また、羅針盤や色ガラスなどもつくられた。文化では「アラビアン=ナイト」(千夜一夜物語)がある。首都のバグダッドは国際都市として、また、中継貿易の拠点として栄えた。

◎西ヨーロッパにキリスト教の世界が誕生!!

  1. アジアにいたフン族(騎馬民族)が異常気象により生活の場を求めて大移動を開始して、ゲルマン系の西ゴート族が移動を開始したのがゲルマン民族の大移動だといわれている。これは4世紀後半の話だが、このためローマ帝国が東西に分裂し、5世紀末には西ローマ帝国が滅亡した。ちなみに、東ローマ帝国は15世紀まで生き延びる。
  2. ゲルマン人は各地に国を建てたが、その中で、

★KEY-POINT


  1. この間に、西ヨーロッパに封建制度のしくみができた。西ヨーロッパの封建社会の特色は次の2つ。
     ・国王・諸侯・騎士が領主として荘園と農奴を支配。
     ・ローマ=カトリック教会の力が強まり、ローマ法王の権威は各国の国王をしのいだ。

2で登場したフランク王国について。この王国、支配下にカトリック系のキリスト教徒が多かったために、もともとは別の宗派であったが、カトリックに改宗して統治をスムーズに行なった。後にこの王国は相続争いから3つに分割されるのだが、その境界線は、現在のドイツ語・フランス語・イタリア語の言語境界とほぼ一致している。この3つの境界が重なるところに後のスイスが建国されたのだが、3つの言語境界は変化していないため、現在でもスイスは3つの公用語を持つ国となっているのである。

◎ローマ法王の力を示す十字軍の遠征

  1. 十字軍の目的:「セルジューク=トルコに占領されたキリスト教の聖地エルサレムを奪回すること」というのが表向きの理由。しかし実際は、この時代のヨーロッパは温暖期に入った気候を背景に大開墾時代となっていた。また、人口の増加と重なって土地が不足してきていた。そこで聖地奪回という大義名分のもとで、領土拡大に乗り出したというのが実情というわけだ。
  2. 経過:ローマ法王の呼び掛けに、国王・諸侯・騎士だけでなく農民も参加→11世紀末から約二百年の間に7回の遠征を行なったが、結局は失敗。

★KEY-POINT

十字軍の影響

  1. 東方貿易が盛んになり、商業・都市が発達。イタリアのベネチア・ジェノバ→ルネサンスの準備
  2. 諸侯・騎士が没落し、国王の力が強まる→封建制度が揺らぎ、ローマ法王の権威も弱まる。

結果的には、第1回の十字軍以外はすべて失敗に終わっている。その原因は、@ヨーロッパ各国からの連合軍で構成されているため、統制が十分にとれなかった、A宗教上の目的から、次第に東方の富を得ることも目的となり、動機が不純になってきたから、という2点があげられる。

◎ルネサンスは、まずイタリアで起こった

これまで、書物はほとんどラテン語で書かれ、読めるのは一部の知識人であったが、14世紀の初め、ダンテは自分の母国語のイタリア語で「神曲」を著した。これがルネサンスの先駆けである。


★KEY-POINT

  1. ルネサンスは、封建社会やキリスト教にとらわれず、人間の自由な活動を求めた文化活動…ギリシア・ローマ文化を模範とし、文芸復興と訳される。
  2. 主要人物…万能の天才レオナルド=ダ=ビンチ、ミケランジェロ、コペルニクス、ガリレイなど。

このルネサンス、文化においてだけ影響を及ぼしたのではないことに注意。ルネサンスは一方で、人間と自然とをありのままに観察し分析する精神を発達させた。そのため、化学と技術の発達を刺激した。グーテンベルクが発明した活版印刷術は、聖職者や貴族に独占されていた知識を広く普及させる役割をはたした。火薬の利用は大砲や鉄砲を生み、騎士の没落を早めるとともに、対外進出を有利にした。羅針盤は、地理学や天文学の発達とともに遠洋航海を可能にし、ヨーロッパ人の世界制覇に道を開いた。

イタリア=ルネサンスは次第に西ヨーロッパの各国に伝わり、イギリスではシェークスピアらがでた。

◎宗教改革は、キリスト教の革新と反省の動き

十字軍の失敗で資金繰りに困っていたローマ教皇は、資金集めのために免罪符を売っていた。免罪符とは、免罪符を買えばそれまでの罪が許されるというもので、この行いは神の権威を著しくそこなうものであるとして、宗教改革の発端となった。


★KEY-POINT

  1. 発端…1517年、ドイツのルターが教会の免罪符販売を批判。聖書中心主義を唱える。
  2. フランスのカルビンはスイスで宗教改革…勤労と蓄財を勧め、商工業者に受け入れられた。
  3. カトリック教会側の対抗…イエズス会(ヤソ会)が海外布教…フランシスコ=ザビエルら。

ルターやカルビンの教えをプロテスタント(新教)といい、従来のカトリック(旧教)と区別した。

◎新航路の発見はスペイン・ポルトガルが中心

15世紀の頃まで、イスラム商人やイタリア商人が東方貿易を独占…アジアの香辛料や絹織物を輸入して莫大な利益を獲得→西ヨーロッパの人々は、地中海を通らずに、直接にアジアと交易する道を求めた。


★KEY-POINT

  1. コロンブス…1492年、イタリア人だが、スペインの援助をうけてアメリカ大陸に到着。マルコ=ポーロの「東方見聞録」に刺激される。
  2. バスコ=ダ=ガマ…1498年、インド航路を発見。ポルトガル人。
  3. マゼラン…1519〜22年、世界一周の航海に成功。ポルトガル人、スペイン王の命で行く。

新航路の発見の背景には、天文学・地理学や航海術の発達、羅針盤・火薬・帆船の改良など、化学・技術の発達があった。

新航路の発見によって、ヨーロッパ人が世界に進出する道が開かれた。とくにスペインは、アメリカ大陸にあったメキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国を滅ぼすなどして、一大海上帝国を築いた。

◎ヨーロッパ諸国の海外進出

  1. ポルトガル…16世紀初めインドのゴア、中頃に中国のマカオへ(香料)。南米のブラジルへ。
  2. スペイン…中南米やフィリピンへ(マニラ中心)。
  3. オランダ…17世紀初め東インド会社を作って進出。ジャワ島や北米東岸へ。
  4. イギリス…東インド会社をつくりアジアへ。北米にも。

◎偶然ではない、ヨーロッパ人の日本来航

  1. 鉄砲の伝来:1543年ポルトガル人が種子島へ。
  2. キリスト教伝来:1549年フランシスコ=ザビエル、鹿児島へ。そして布教活動。
  3. 南蛮貿易:スペイン・ポルトガルとの貿易。
  4. ローマ使節:1582年伊東マンショら。1613年支倉常長。

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