現在の中国では、モンゴル民族の活動が活発化してきた。モンゴル民族を蒙古民族とも言うのだが、13世紀はじめにチンギス=ハンが諸部族を統一してモンゴル帝国を築いた。そして時は過ぎ、チンギス=ハンの孫フビライ=ハンの時代がやってくるのだが、このフビライはモンゴル帝国の都を北京に移し、国号を元と改めて、南宋を滅ぼし中国を統一した。さらには、日本までを従えようとしてきたすごい奴なのである。
このモンゴル帝国改め元は戦争ばかりしていたのではない。アジアとヨーロッパにまたがる大帝国であったので、交通路を整備した。これにより、元はイスラム帝国の数学や天文学などを吸収することができた。また、元の前の南宋の時代に発明された火薬や羅針盤が、ヨーロッパへ伝わった。そして、この交通路を通るのは当然人間がいるわけで、西洋の使節・キリスト教宣教師・商人が元を訪れた。この中にイタリアのベネチアの商人マルコ=ポーロという人がいて、西洋からみると東側に位置するアジアの様子を報告した「東方見聞録」を著した。この中で紹介されている日本についての文章「黄金の国ジパング」は、すでに聞いたことぐらいはあるだろう。
モンゴル帝国・元の時代というのは、ヨーロッパでは十字軍の時期に当たっており、それまで基本的には孤立してそれぞれの文明を発展させてきた諸文明県相互間に、世界史上初めての本格的な接触、交流をもたらすことになった。これは、その後の世界が一体化して動いていくことになるという、歴史的意義をもっているのである。言い換えると、今までは日本史なら日本史だけを勉強していれば事足りていたが、これからは、世界のなかの日本という視点からの勉強が必要となってくるという、誠に厄介な帝国の出現ということができる。
膨張していく帝国の勢いにのった元は、日本に服従を要求してきた。しかし、時の八大執権時宗はこれを拒否した。怒ったフビライは日本に大軍を二度も送ってきた。これが「元寇」であり、はじめの襲来を文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)と言う。この戦に際して日本は、異国警固番役という、九州の要地を交替で警備する役目を西国の御家人に命じた。この二度の襲来は、元軍の「てつはう」に苦しめられたが、たまたま通り過ぎた暴風雨のおかげと、元軍のやる気のなさからなんとか切り抜けた。この暴風雨、この時はこれでよかったが、日本の神国思想というものを生み出してしまい、第二次世界大戦における神風特攻隊などという愚劣な行為の源となるのであった。
元寇は、幕府を頂点として、朝廷・院・公家・寺社・御家人・非御家人が力を合わせたから、一つのまとまった日本民族としての自覚が高まることになった。しかし、一方で、多大な戦費を費やしながら収益がなかったので、幕府財政は貧窮し、御家人にも恩賞を与えられず、御家人の窮乏化が進み、社会が混乱しはじめてきた。
★KEY-POINT
徳政令とは、御家人の借金の帳消し令のこと。これにより、御家人の生活は楽になるかと思いきや、実はダメ。時代は土地の分割相続から嫡子(惣領)単独相続などにより、御家人は金を借りる必要に迫られている状況であったので、徳政令によって、高利貸したちは御家人への融資を渋るようになり、御家人は正に貧乏になり、社会が混乱していった。ということは、幕府の権威の衰えとつながっていくのである。
徳政令は何度か出されたが、一番有名なのは永仁の徳政令(1297年)。
今までの仏教の無力・堕落かが進むなか、天台宗・延暦寺で修業した坊さん達は、主に武士や農民を対象とした、教理がわかりやすく修業が簡単な仏教を布教しはじめた。
宗派 | 開祖 | 特色 |
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浄土宗 | 法然 | 南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀仏にすがる |
浄土真宗 | 親鸞 | ひたすら阿弥陀仏を信じれば悪人でも救われる |
時 宗 | 一遍 | 踊り念仏を広める |
法華宗 | 日蓮 | 南無妙法蓮華経を唱えると、仏に救われる |
臨済宗 | 栄西 | 自らの力で悟りに達する自力本願を旨とし、武士の間に広まる |
曹洞宗 | 道元 | 上に同じ |
京都の公家文化をもとに新興の武士の生活のなかからおこった文化が加味され、さらに大陸から禅宗など宋・元文化の影響も加わった。
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