第6回 鎌倉幕府と武士の生活


鎌倉時代

源頼朝が開いた武士政権である鎌倉幕府の創設から1333年の幕府滅亡までの約150年間。承久の乱後は公武二元的な支配を克服して執権政治のもとに武家政権が確立され、地頭制のもとに荘園制が変質した。文化面では力強い武家文化が形成されはじめた。

◎平氏は1185年に滅亡し、源氏が政権を握る

平氏の独裁的な有様に人々が反感・失望し始めたなか、1180年の後白河法皇の子以仁王の命に源氏がこたえ、兵を挙げた。そして、18年にわたる平氏政権を壇ノ浦で終止符を打つと、平氏のように源氏が貴族化するのを恐れた頼朝は鎌倉に留まる決意をする。一方、弟義経の力を恐れはじめた頼朝は、義経を追放し、逃げる弟の捜索を名目とした守護・地頭を各地に配置し、平氏一 族の反乱を押さえようとした。1192年になると頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開き、鎌倉幕府・時代が産声をあげることになる。


★KEY-POINT


ちなみに、御家人とは、頼朝の家来になった武士のこと。

◎鎌倉幕府のしくみ

鎌倉幕府ができても、京都では朝廷や公家の勢力がまだ強かった。国司はなお諸国に派遣され、公家や寺社は広い荘園を支配していた。頼朝の家来でない武士・非御家人もたくさん地方にいて、公家や寺社に仕えていた。そのため、幕府の勢力が直接に及んだのは、東国一帯であり、国々には国司(公領を支配)と守護が、荘園には荘官(荘園領主が任命)と地頭がいるという、武家(幕府)と公家(朝廷)の二大勢力によって二重の支配が行なわれていた。

◎北条氏が執権政治を行ない、幕府の力をのばす

頼朝の死後、子の頼家が将軍になったが北条氏に殺され、ついで将軍になった頼家の弟実朝も、甥の公暁に殺された。こうして源氏はわずか三代、30年足らずで滅んだ。北条氏は京都から公家の幼児を迎えて将軍とし、頼朝の妻北条政子(尼将軍)や北条義時らが実権を握った。さて、ここで一大事件がおこる。京都で院政を行なっていた後鳥羽上皇は、源氏が絶えたのを機会に、倒幕し政権の奪取を計画した。そして、上皇は1221(承久3)年に、二代目執権北条義時を討とうと挙兵したが、結局敗退。この乱を承久の乱という。


★KEY-POINT

 
承久の乱(1221年)
後鳥羽上皇が政権奪回を企図→失敗→隠岐へ配流

子の乱の処理として幕府は、朝廷側の貴族や武士の領地(荘園)を没収し、御家人をその地頭とした。朝廷を監視する六波羅探題を京都に置いた。その結果、北条氏による執権政治が確立した。


★KEY-POINT

御成敗式目(貞永式目)
1232年、執権北条泰時を制定。御家人の秩序を正すための武士が最初に作った法律で、頼朝以来の先例や慣習に基づき、51ヵ条からなる。

この御成敗式目は、のちの室町幕府や戦国大名による武家方の手本となった。

泰時はまた、評定衆を設けて重臣の合議によって政治を行なった。泰時の孫時頼は、評定衆を助けて裁判を公平に早く行なうために引付衆をおいた。この泰時・時頼の時代に執権政治は全盛期を迎えた。


★KEY-POINT

◎武士の生活

ふだんは農村に住み、守護・地頭や荘官として領地の経営や荘園の管理にあたった。また、一族の頭を惣領といい、惣領が強い権力をもって一族をまとめていた。住まいは、大きいけれど質素で、周囲には堀や土塁がめぐらされ、門には矢倉があり、戦に備えているものが多かった。

また、武士は普段から武芸・武道として、犬追物・笠懸・流鏑馬などを行なっていた。

◎社会経済

  1. 貨幣:宋銭を使用していた。
  2. 農業:近畿地方を中心に二毛作が始まる。灌漑・治水を行ない、刈敷・草木灰という肥料を使用し、牛馬耕もやった。これらのために、生産力が高まった。
  3. 商業:月に三度行なわれる三斎市(一遍上人絵伝)。商工業者は座という同業組合を作り、特権を認められた。為替や借上・土倉(高利貸業者)もあらわれた。
  4. 交通:馬借・問丸などの運送業者の登場。
  5. おまけ:地頭請・下地中分

次へ進む 前へ戻る
歴史のホームページへ戻る☆ ホームへ戻る☆

このページの無断転写・掲載を禁止します。転載希望の方は必ずご連絡ください。
copyright 1997-99 Hara Takatoshi
takatosi@harachan.net