第5回 変わりゆく東アジアと日本
◎平安時代の権力変遷の歴史をみてみよう
平安時代が始まってから10世紀前半まで天皇親政が続いていた。しかし、荘園の発生により律令制度が崩壊をはじめ、藤原氏が摂関として権力を欲しいままにした。But,藤原氏の摂関政治の下では、朝廷の力が地方に行き渡らなくなり、また、国司も私利私欲にはしって利益をむさぼったので地方の政治が乱れた。有力農民(名主)や地方豪族は、自衛のために武装するようになった。これが武士の起こりである。やがて、大きな武士団(源氏・平氏が棟梁)ができ、地方の争乱の度に、貴族はどうすることもできず、武士の力を借りて、これを鎮めた。また、同時に都で貴族の身辺を警護するようにもなった。一方、摂関制度に不満を持つ天皇は上皇として天皇の代わりに政治を行なうとして、院政をはじめた。これには、藤原氏に不満を持つ貴族や国司、武士の支持をうけ、政治の実権を握っていった。By
the way,院や貴族の警護をしていた武士たちは、手となり足となって働くことに飽き足らず、政治の中心で活躍することを夢見だした。初めに夢がかなったのがかの有名な平氏である。
↓武士登場!
天皇▼▼▼▼▼摂関政治▼▼▼▼▼▼▼院政▼▼▼▼▼平氏政権
藤原道長・頼道 白河上皇 平清盛
◎武士の成長
- 平将門の乱(承平の乱・935~940)…新皇と称して、国司を追放し、関東一帯を占拠した。しかし、平貞盛・藤原秀郷に討たれる。
- 藤原純友の乱(天慶の乱・939~941)…伊予掾という現在の愛媛県の役人であった純友は、任期が過ぎても帰京せず、瀬戸内海の海賊の棟梁となり乱をおこした。太宰府までも侵入した。源経基によって平定される。
@とAは都の貴族たちに武士の力を認識させるきっかけとなった。
- 平忠常の乱…1028年、反乱をおこして房総を占拠したが、追捕使源頼信に降伏。関東における、平氏の勢力が衰退し、源氏が進出した。
- 前九年の役(1051〜62)…陸奥の土豪安倍氏が国司に反抗、朝廷の命で源頼義・義家が清原氏の援助を得て平定。源氏の東国における勢力確立の緒となる。
- 後三年の役(1083〜87)…清原氏の反乱を源義家が平定。朝廷からの恩賞はなく、義家が私財を投じて部下に与えたため、関東において、源氏の棟梁としての地盤が固まる。Dで義家に協力して戦った清水清衡という人物がいる。のちに藤原清衡となる。義家より支配地を継承。平泉を根拠に奥州藤原氏3代の栄華を開く。中尊寺金色堂を建立。
◎摂関政治にかわる院政
院とは太上天皇(上皇)の居所。転じて上皇その人。院政が始まった理由は先述した。
★KEY-POINT
- 1086年、白河天皇は上皇となり院で政治をはじめる→院政
- 平氏が院の警備にあたる→平氏の中央進出
院政を支えた力は、次の3つが重要
- 藤原氏にかわって、院に集中した荘園の経済力。
- 藤原氏に押さえられていた中・下級貴族の支持。
- 院と結びついて勢いをのばそうとした平氏・源氏の力。
このころは、政治の中枢が二ヶ所(院と朝廷)あり、どちらの言うことを聞けばいいのかわからない混乱した日々が続いた。この混乱期のなか、寺院は寺領を守るために僧兵を養い、朝廷や院に強訴(無理な要求をする)した。奈良の興福寺や比叡山の延暦寺が有名。
◎平清盛が武士として初めて政権を握る
- 保元の乱(1156年)…天皇VS上皇に藤原氏・平氏・源氏がそれぞれ二派にわかれて戦乱。この時はまだ貴族が主で、武士は従。後白河天皇と崇徳上皇が対立。天皇側の勝利におわる。
- 平治の乱(1159年)…保元の乱で天皇側についていた武士の平清盛と源義朝が対立。それぞれの武士に貴族がついていた。しかしこの時点では武士の力の方が強くなっていて、武士が主で、貴族が従。平清盛の勝利でおわる。これによって「平氏にあらざれば、人にあらず」という平氏全盛期がおとずれる。
- 平清盛が、貴族の官職である太政大臣になった。
平氏一族が高位高官を独占した━━━━━┓
平清盛の娘を天皇の妃にした ━╋━藤原氏と同じ手法
全国の半分を支配し、多くの荘園を所有━┛
- 日宋貿易…兵庫(神戸市)の港を修築。大輪田泊。
┏━輸入品…宋銭・絹織物
┗━輸出品…金・銀
◎「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」
- 鹿ヶ谷の変(1177)…院の人たちが企てた、平氏打倒計画。直前に発覚。企画倒れに終わる。
- 源氏挙兵…源頼政・頼朝、木曽義仲が挙兵(1180)。
- 平氏滅亡…田舎者木曽義仲を頼朝は義経に討たせ、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で討ち取った。
《平氏滅亡に至った理由》
- 平氏はもともと、院や貴族の政治に不満を持つ武士に支持されて政権の座についたのに、平氏自信が貴族化した。
- 平氏の専横に、院・貴族・寺社の反感をかった。
- ぜいたくな暮らしをし過ぎた。
◎貴族の生活様式はどのようなものだったのか
寝殿造の建物に住み、男子は衣冠・束帯という正装や、直衣・狩衣といった普段着を、女子は十二単を着ていた。そして、歌あわせ・蹴鞠・囲碁などをして遊んでいた。この時代に開花した文化を国風文化といい、華やかで優美なものであった。貴族中心に栄えたため、貴族文化といったりもするらしい。
◎国風文化
- 絵画→大和絵…日本の自然や人物を描いた。
絵巻物…大和絵と物語が結びついたもの。「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」など。
- 書道→三筆…平安時代初期の書道の上手い人。空海・嵯峨天皇・橘逸勢。
三蹟…藤原氏全盛期の書道の上手い人たち。小野道風・藤原行成・藤原佐理。
- 和歌→古今和歌集…史上初の勅撰和歌集。紀貫之らが編者。
勅撰和歌集…天皇・上皇に命じられて歌人が編集した和歌集。
- 物語→9C頃…「竹取物語」「伊勢物語」
11C……「源氏物語」紫式部
- 日記文学→「土佐日記」紀貫之
- 随筆→「枕草子」清少納言
- 歴史文学→「栄華物語」「大鏡」藤原氏の栄華をなつかしむ。
- 説話集→「今昔物語」
◎唐から宋へ
律令政治の大先輩であった唐は、日本と同じく均田制の崩壊により10世紀の初めに滅亡した。その後に、宋が中国を統一した。
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