どの時代にも金持ちは存在するもので、明治時代にもそう呼ばれる人達がいた。いわゆる資本家であるが、彼らは官有物の払下の買収を政府から優先的に受けるなどの保護・育成の下でぬくぬくと肥太り、日本の産業革命の推進役を担う事になったのである。このような資本家を財閥といい、代表的なものに三井・三菱・安田・住友がある。
日本の産業革命は軽工業を中心に始まった。これを第一次産業革命というのだが、トヨタ自動車を設立した豊田家の先祖豊田佐吉が自動機織器を発明し、また、先述した財閥が官営の工場などを買い入れて海外に綿製品を輸出した。しかし、既に海外市場には先進国のイギリスがいて、その市場に割り込もうとするならば価格で勝負する以外になかった。そこで日本の資本家共は、原料の価格は下げられないので人件費を削減することにした。この紡績業の主な働き手は女性であったのだが、当時の労働の凄まじさは細井和喜蔵の「女工哀史」等に詳しく描写されている。12時間労働であったのが18時間労働になり、寝泊りは一人一畳が割り当てられる寄宿舎に強制的に押し込まれ、賃金はイギリスの労働者の26分の1という劣悪な条件下であったことが知られている。ちなみに、この第一次産業革命は日清戦争と同時期である。
明治時代初期に欧米を視察した大久保利通は、イギリスが産業革命を達成した源泉が石炭と鉄であることを見抜き、日本にも鉄と石炭産業の活性化が“近代化”に必要であると感じていた。そしてその思いは日清戦争で賠償金を得、北九州に八幡製鉄所を建設することで日の目を見た。この八幡製鉄所が完成した時期と日露戦争は同時期であるが、この時代が第二次産業革命と呼ばれる時代であり、重工業を中心に発展した。ここで働いていた人達も大変であった。4人に1人は女性だったが、12時間から14時間労働が標準であった。こうした人々の苦難のうえに日本の産業革命は成立し、資本主義が確立し先進国の仲間入りを果たしたのである。
もともと、産業革命時に工場で働いていた者は農村出身者であった。これは伝統的な家内制手工業の衰退と日清戦争などの増税による収支の悪化が原因で、農村を離れて労働者にならざるをえなかったからである。そして、資本家にいいように利用されてしまったわけである。しかし、低賃金と長時間労働には限界があり、労働者は一致団結して労働条件の改善を要求するようになるのである。片山潜らが中心となって「労働組合期成会」をつくり、この運動を支援した。こうして各地で労働争議が起きることになる。また、小作料の支払いに苦しむ農民は、農民組合をつくって小作争議を起こした。
こうした社会の変化に対応して社会主義を唱えるものも出現した。この時代の社会主義は一言では定義できないのだが、階級の廃止や、資本や土地の国有化を主張したもの程度の理解でいいと思う。社会主義を唱えた中心的な存在である安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らは社会民主党を結成した。これはすぐにつぶされてしまうが、今度は平民社と名前をかえて社会主義の立場から日露戦争に反対したのである。この後には、日本社会党を結成し普通選挙運動を求めて活動した。
上記の運動とは関係ないが、ここで小話を一つ。栃木県の足尾銅山から森高千里の歌にも登場する渡良瀬川に鉱毒が流れだすという事件が発生した。これを足尾鉱毒事件という。これは流域の田畑を荒廃させ、農民に大きな被害を与えた。地元の農民等は、地元の代議士の田中正造を中心に何度も誓願したが、政府は問題の解決にはあたらず、反対運動を力で押さえた。
こうした一連の社会運動に対して、政府は弾圧という解決の手段を選択した。その象徴が治安警察法であり、言論・集会・結社や組合運動を取り締まった。そして、この法が適用された最大の事件に大逆事件がある。天皇の暗殺を企てたと者と無関係な者の26名の社会主義者を起訴し、幸徳秋水ら12名を死刑にした。これ以降社会運動は下火となり、「冬の時代」を迎えることになる。
文部省を設置し、フランス式の学制を導入し国民皆学を目指し、東京大学をつくり、フランス式が日本にあわないと判断するやアメリカ式の学制を導入するなど教育に力を注いできたのである、明治政府は。しかし、明治23年にとんでもない失態をしでかすのである。それを教育勅語という。これは、国法に従い、勤勉に働き、戦争の際には天皇のために勇敢に戦い、天地とともに天皇が栄えるように全力を尽くせ、という内容である。これによって天皇は絶対的な存在であると学校で学ばされ、キリスト教や日本の歴史学に著しい悪影響を与えた。
天皇を絶対化するという発想で行なわれたことに廃仏毀釈というのもある。これは日本古来の神、すなわち天皇の先祖を敬うというもので、神社を保護し、よそ者の仏教・寺を破壊していくというものである。神仏分離令というものがだされた。
まず、写実主義というのがある。これは、事実や人間の心の動きをあるがままに描きだそうとするもので、代表的なものに坪内逍遥の「小説神髄」がある。これに続いて“くたばって死んじめぇ”の二葉亭四迷「浮雲」という、話し言葉と同じ言葉遣いで書かれたものが登場した。これを言文一致体という。言文一致体なんて言葉があるくらいだから、当時は話し言葉と書き言葉が使い分けられていたことがわかる。次いで、自由な感情を重んじるロマン主義が流行った。森鴎外・島崎藤村らが有名。この他には、現代でもやたらとファンの蔽い夏目漱石、BASEBALLを野球と訳した正岡子規、口語で社会の矛盾や苦しみを歌った石川啄木など有名人には事欠かない時代なのである。ということは覚えることがいっぱいということ。ちょっとうんざり。
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