第22回 アジアの国際関係と対外政策


◎明治時代の迎賓館「鹿鳴館」

日本は鎖国をやめる段階で不平等条約を欧米の各国と結んだ。この条約のなかでも「治外法権」と「関税自主権」を回復することは、欧米と同じ独立国となることを意味し、ぜひとも回復したい悲願のものであった。そこで岩倉具視らを欧米に派遣したが、相手にされなかった。欧米各国としては、おいしい利権を手放すのはもったいないものであったし、また、肌の色の違う人種に自分達と同じ権利を認める必要性も感じていなかったようである。だから、日本の井上馨は日比谷に鹿鳴館を建て、連日舞踏会を開いて、自分たち日本人もきちんと洋服を着れるし、踊ることもできることをアピールし、条約改正実現へこぎつけようと懸命になったのである。しかし、大隈重信が外務大臣のときは、外国人判事採用問題で交渉に失敗し、青木周蔵外相の際には大津事件が起きて失敗に終わったのである。

◎朝鮮をめぐる争い

日本は日朝修好条規を結んで以来、朝鮮を属国のように扱ってきた。また、欧米各国も日本と同様な態度を朝鮮に対してとってきた。そうした諸外国の態度に毅然とした態度のとれない朝鮮政府と外国に対して、朝鮮の農民は不満を抱き反乱を起こした。これは西学と呼ばれたキリスト教の反対に位置する東学党という宗教団体が中心になったので、東学党の乱と呼ばれたり甲午農民戦争といったりする。この乱は、農民の圧倒的な支持を得て、朝鮮半島全体に広がった。そこで、日本と清はこの乱を鎮めるという名目で朝鮮に進出した。しかし、この乱の鎮圧後も両国は撤兵せず対立が深まった。両国とも朝鮮に対する影響力を保とうとしたからである。そして両国は和解することなく、武力衝突するのである。これが日清戦争である。結果は日本の近代装備と、清の国内の不統一などから日本の勝利で幕を閉じる。

日清戦争後、両国は下関で下関条約を結ぶ。その内容は以下の通りである。


★KEY-POINT


ここで問題になるのがAである。遼東半島は軍事的に満州進出への重要なあしががりとなるのでまず満州を支配下にしようと企んでいたロシアの反感をかい、ドイツはロシアの関心を満州・遼東半島に向けさせることで自国の外交政策を推進しようとロシアに荷担し、フランスはロシアと同盟を結んでいたためロシアと一緒になって日本に対して遼東半島の清への返還を要求してきた。これを三国干渉という。日本はこの三国に対抗するだけの軍事力がなかったため、返還を承諾した。これ以後、とくにロシアに対して敵愾心を持つようになった。

この下関条約で得られた賠償金を基に、北九州に八幡製鉄所がつくられ、日本は資本主義の国の仲間入りを果たすのである。

◎孤立を捨てたイギリス

日清戦争の年(1894)に日本はイギリスと治外法権の撤廃に合意していた。この時の外相は陸奥宗光である。どうしてこんなことが可能になったのか。それは、イギリスはロシアの東アジア進出を防ぐため、日清戦争直前に治外法権の撤廃に応じることで、日本に対して恩をうり、自国の中国における権益の維持をはかろうとしたためである。そして、この延長として、1902年に日英同盟が結ばれることになる。

この日英同盟を結ぶにあたって、国内には反対意見もあった。この同盟の目的は、アジアにおけるロシアの脅威を防ごうというものであったのだが、どうせ同盟を結ぶなら、仮想敵国であるロシアと結べばいいじゃないかというものである。これを日露協商というのだが、ロシアの皇帝は日本人を猿とみなしていて、そんな人間じゃないものとは同盟は結べないとあしらわれて決裂してしまった。こうして、日露の武力衝突は避けられないものとなるのだった。

もう少し説明をしておこう。この日英同盟締結を加速させた要因に、北清事変がある。日清戦争で敗けた清は、アヘン戦争に続いてまたもや大国のくせに弱体であることを暴露してしまった。そこで、日本や欧米諸国は中国に租借地を獲得し、進出してきた。その結果、清は各国の植民地みたいな扱いを受けることとなったのである。そうしたら、頭にきたのが民衆である。「扶清滅洋」をスローガンに義和団という農民を中心とした宗教的秘密結社が反乱をおこした。これを義和団の乱という。列強が敷設した鉄道や、北京にある外国公使館を襲撃したのである。この時、欧米各国は軍隊を派遣して自国の権益を守りたかったのだが、あとで説明するが、他の地域で植民地獲得のために軍隊を出し切っていたため清にまで派遣できなかった。そこで、地理的に一番近い日本にこの義和団の乱の鎮圧を各国は望むようになった。特にイギリスは、日本に直接出兵を要求しただけでなく、財政援助まで申し出てきたのだ!!こうなることを予想してすぐには出兵をしなかった日本の作戦は大成功し、列強が日本をYELLOW MONKEYから極東の憲兵へと認識を改めることになるのだった。こうして日本とイギリスは急速に接近していき、日英同盟を結ぶことになるのである。この義和団に関する一連の事件を、北清事変と呼んでいる。

◎偽りの大勝利「日露戦争」

結局、日本はロシアと戦争に突入した(日露戦争)。満州における陸軍同士の対決では、ロシアの伝統的な後退戦術にはまり、勝利したかのように見えながら全然相手に打撃を与えられないとう状態が続いた。中でも二○三高地という戦いは有名だ。映画にもなっている。しかし、はるばるヨーロッパから遠征してきたバルチック艦隊に対しては、日本海海戦でとっても有名だが、完勝した。この時の日本は、陸軍においてはもうこれ以上戦争が続行できないほどに戦力が減少し、日本海海戦で勝利をしたから、この勢いで講和したいと考えなければならない状況に追い詰められていた。またアメリカも、これ以上日本がアジアで大国になってしまうのはおもしろくないし、肌の色も違うからロシアを助けてあげようということで、アメリカ大統領であったセオドア=ルーズベルトの斡旋で、アメリカのポーツマスで講和条約を結ぶことになった(ポーツマス条約)。


★KEY-POINT


以上がその主な内容だが、ここで注意すべきは賠償金が一銭ももらえなかったことだ。ロシアもアメリカも、これ以上戦争を続行する力が日本にないことを知っていたので、日本の足もとを見て交渉に望んできたのだった。日本もそのことは承知していたので、渋々この条件を呑んだ。しかし、日本国民は勝利したことしか知らされていなかったので、この条約内容におおいに不満を持ち、その不満が頂点に達したとき、日比谷焼き打ち事件なんていうのが起きたりした。この事件の責任を取って、時の桂内閣は退陣している。ところが、この日露戦争の影響は意外と大きかった。日本軍においては、この戦争の戦術が太平洋戦争終決まで手本となっていたし、自信をなくしていたアジア全体では、植民地から独立できるのではという自信を与えることとなったのである。

さて、視点をかえて、日露戦争反対派の人々のことも知っておこう。幸徳秋水・境利彦は「平民新聞」を発刊して社会主義の立場から非戦を訴えた。また、キリスト教の人道主義から戦争に反対した内村鑑三もいた。開戦後、歌人であった与謝野晶子は「君死にたもふことなかれ」というしで、反戦にインパクトを与えた。しかし、熱狂的な主戦論のなかで、こうした意見は埋没を余儀なくされた。

話は変わるが、1911年にアメリカと関税自主権の回復に合意した。この時の外相は小村寿太郎であった。こうして日本は独立国として列強の仲間入りを果たした。

◎日本語を強制した韓国併合

ポーツマス条約で韓国に対する優越権を得た日本は、1910年日韓併合条約を韓国と結び、韓国を日本の植民地とした。これを韓国併合という。これは第二次世界大戦終決の1945年まで続くのだが、ここで日本がしたことで、日本語以外の言語の使用を禁止したことが特筆される。約35年にわたって日本語を強制されたため、現在の韓国の50歳以上の人たちは日本語を話せる。しかし、あまりに屈辱的であったため、現在でも日本車の輸入は禁止され、カラオケにおいても日本人の歌はリストに入れてはならないなど、日本文化に対するさまざまな規制がなされている。ちなみに、日本は韓国に朝鮮統監府を設置し、初代統監に伊藤博文が就任している。

◎帝国主義の時代

19世紀の後半になると、欧米の先進国では資本主義が高度に発達し、少数の大資本が国の経済を支配し、政治も動かすようになってきた。そして大資本は、海外に市場や原料供給地を求め、国内で余った資本を投下して現地の産業を支配し、政府と組んで武力を背景に植民地化をすすめた。こうした高度に発達した資本主義国の動きを帝国主義という。

世界地理の東南アジアを勉強していたときに、フィリピンはアメリカから独立したとか、インドシナはフランスから独立したというのを覚えたと思うが、こうした植民地化はこの時期に行なわれたのである。


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