第21回 大日本帝国憲法の制定と議会政治


◎士族に栄光あれ!!「チェストー!!」

「征韓論」というものがある。これは読んで字の如く、韓国を攻めてしまおうという考えである。この考えが生まれた背景は実に簡単明瞭である。今まで武士として様々な特権があったのに、四民平等でその特権を失い、さらには徴兵令が目指した国民皆兵のためにその存在意義までを失ったことで、士族たちの生活は苦しくなるばかりか、プライドまで傷つけられてやり場のない怒りを持っていた。そこで、西郷隆盛は士族のプライドを復活し士族中心の政権を創ろうと、また、木戸孝允は国内では不要になった士族の力と明治政府に対する怒りを国外に逸らそうと、両者の目的が一致して誕生したのである。

ところが、岩倉欧米視察団が帰国したら事態がややこしい方向へ進みはじめた。この征韓論は視察団が帰国した段階で既に準備は終えてあとは実行に移すまでになっていたのだが、帰国した岩倉・木戸・大久保は大反対をした。せっかく地租改正や血税一揆という農民一揆を鎮めたばかりなのに、征韓論を実行するとその戦費捻出のためにまた農民に重税を課すことになって民衆の大反対にあうことになる。それは、現在の政府の力では押さえきれないので絶対に認められない。という理由である。こうして反対派が強引に征韓論廃止で決着をつけるのである。

これで話が終わりではないところが非常に面倒臭い。なんと、征韓論推進派であった西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎らが明治政府に辞表を叩きつけて、一斉に下野してしまったのである。そして、これ以後彼らが中心となって各地で不平士族の乱が勃発するのである。江藤新平が佐賀の乱を、これに呼応して神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱、そして最後に西郷隆盛を中心とする旧薩摩藩士が西南戦争を引き起こすのであった。明治政府は徴兵制の軍隊に近代装備を施し、さらには薩摩藩に恨みをもつ旧会津藩士らを戦地に投入してこれを鎮めた。

さて、西南戦争の歴史的意義に触れておこう。この一連の事件は、もはや武士の力の必要のない時代が到来したことを意味したのである。そのため、これ以降は政府に対する反対運動は、武力から言論へと手段が変わっていくのである。

◎「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」by福沢諭吉

征韓論で下野した板垣・後藤・江藤は「国会開設・地租軽減・条約改正」をスローガンに自由民権運動を開始した。以前から明治政府にも国会を開設しなければという考えはあったのだが、征韓論で棚上げになっていたのである。つまり、板垣達にしてやられた形で自由民権運動はスタートするのである。ここでは、国会開設が一番の目的であったことに注意してほしい。このスローガンは「民撰議員設立建白書」という形で政府に提出された。板垣はこの後土佐に立志社という政党をつくり、翌年(明治八年)愛国社をつくって全国展開を図ることになる。ところが、この動きに驚いた政府は新聞紙条令を公布・出版条令を改正して、自由民権運動に対して言論弾圧をはじめた。この運動の目的の一つである地租軽減は明治十年の西南戦争終決後、2,5%に引き下げられて達成した。と同時に、武力による反政府運動が不可能なことを悟った指導者たちは本格的に言論による活動をはじめた。

明治11年になると活動が休止状態だった愛国社が再興され、13年には国会期成同盟として「国会開設」をスローガンに運動が復活した。ところが、政府は今度は集会条令という演説・集会を規制した法律を公布し、またもや運動の封じ込めをはかった。しかし、札幌の大通り公園に像のある黒田清隆が北海道開拓使官有物払下事件というものが起こり、民権運動の激化を招くことになってしまった。そこで政府は、1890年に国会開設を公約し事態の沈静化を図った。のだが、なんと内部から政府の反対者を生み出してしまったのである。早稲田大学の創始者で有名な大隈重信は国会の即時開設論者で、政府の問題先送りを抗議したら逆にクビにされてしまったのである。この後、大隈は立憲改進党を設立して民権運動を開始するのだった。


★KEY-POINT



詳しくは説明していないが、上記の自由党と立憲改進党の違いは出題率が非常に高い。絶対に忘れないこと。

さて、ここまでは民権運動は穏やかに進んできたのだが、ここにきて実力行使にでる者がでてきた。自由党の左派を形成する人物が中心になる。発端は福島県。当時の県令三島通庸は自由党の弾圧をしていた。とくに民衆は強制労働に苦しめられていた。そこで自由党員は裁判に持ち込もうとしたのだが、民衆が「自由万歳」をスローガンに一斉に蜂起してしまった。結局、この事件は自由党主導とみなされ、以後の民権運動の基本的スタイルとなってしまった。これを福島事件という。そして、加波山事件・秩父事件が起きるのだった。こうして、政府の自由党に対する弾圧が増していく中、板垣は自由党の解党を宣言するのであった。

民権運動は、三大事件建白運動という「言論の自由・地租軽減・外交失策の挽回」を要求する形で続き、大同団結運動という民権勢力を統一して反政府運動を推進していく方向で進むが、大同団結運動の中心人物である後藤象二郎が政府の入閣のエサにつられることで瓦解してしまったのである。この二つの運動を封じ込めるため、政府は保安条令という民権派は皇居を中心とする半径3里以内に入ってはならないというとんでもない条令を公布し、尾崎行雄や中江兆民ら570人に適用した。こうして自由民権運動は幕を閉じるのである。

◎大日本帝国憲法の誕生

北海道開拓使官有物払下事件の際に憲法制定を政府は約束していた。そこで、自由民権派は勝手に自分たちで憲法をつくってみた。これを私擬憲法というのだが、植木枝盛などが代表的である。この私擬憲法に共通しているのは、イギリス流立憲君主制・主権在民思想を採用していたことである。ところが、岩倉具視を中心とする政府は絶対的権力の天王星の樹立を図ろうとドイツの専制君主制を基に憲法を作成することとし、伊藤博文をドイツに派遣し、プロシア憲法を模範として憲法草案をつくった。伊藤は帰国後、従来の太政官制度を廃止し、内閣制度を採用し、初代内閣総理大臣に就任した(1885:M17)。なんてこともあったのだが、明治19年(1888)には枢密院というのを設置し、ここで国民に隠れてコソコソと伊東巳代治・金子堅太郎らが本格的な専制君主制の大日本帝国憲法が起草した。そして、黒田清隆内閣のとき(1889:M22,2,11)に発布された。

さて、この憲法の特色をみてみよう。まず、この憲法は天皇によって制定され、国民に授けたものという欽定憲法の形を採っている。そして、主権は天皇にある主権在君、天皇の名による専制政治が可能な天皇大権、国民は天皇の臣民として自由や権利は憲法の範囲内で保障(要するに制限された)等の特徴があった。一方、帝国議会の方は貴族院と衆議院で構成され、内閣は天皇に対してのみ責任を負うという、今の憲法と比べるとメチャクチャな内容だった。この貴族院は一般の人間には縁のない皇族・華族・多額納税者などで構成されていた。こんな連中が政治をしていたのである(今でも一般の人間には縁のない輩ばかりであるが)。

◎貧乏人はカヤの外!?

貴族院とは違って、衆議院議員は選挙によって選出された。しかし、この選挙権が問題なのである。なんと満25歳以上の男子で、直接国税年間15円以上を納めるものと決められていた。15円なんか楽勝だと思うかもしれないが、この二つの条件をクリアしていたのは全人口の1,24%しかいなかったことからもわかるように、貧乏人にはうれしくないものだった。しかし、国政選挙レベルでは確かに女性には選挙権はなかったが、地方選挙レベルでは一部ではあるが選挙権が認められていたことを知っておこう。

議会政治は近年の新党ブームと同じように、少数の政党がくっついたり離れたり衣替えをしたりと変身していくのだが、その中心人物は旧藩士で構成されていて、なかなか民衆の生の意見は反映されない時代が続くのである。


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