全国統一を終えた秀吉も、とうとう寿命を迎えてこの世を去ってしまった。ここから世に云う、関ケ原の戦(1600)が始まるのである。が、この原因はどこにあるのだろうか。秀吉は臨終に際して「五大老」の筆頭徳川家康に子秀頼の後見を依頼している。そして、家康もそれを引き受けている。だから、順当にいけば家康が秀頼を補佐して豊臣政権は存続するはずであった。「五奉行」の石田三成も、「豊臣政権は秀吉によって樹立され、基礎固めもすんだので、幼い秀頼ではあるが、世襲してやっていける。」と考えていた。ところが、家康は違った。「まだ、世襲するほど豊臣政権は安定していない。」、「天下は実力のある者の持ち回り。」と考えていた。要するに、家康は秀吉に対しては負けを認めるが、その子には負けていない、という意識があったのだろう。この家康と三成の考えの違いが、関ケ原の戦を引き起こしたのである。この戦の結果は、数のうえでは圧倒的有利のはずであった三成・西軍が、相次ぐ裏切りにあい、家康・東軍に破れている。
関ケ原の戦いの歴史的意義は、@政権が豊臣氏から徳川氏へと移行し、A幕藩体制の確立、が挙げられる。余談だが、東軍・西軍の経済基盤が同じ日本の中でも違っていた。東軍は貨幣経済が浸透していなかったために米が主体であり、京と大坂がある西軍は銀が基盤であった。東軍の勝利に終わったことは即ち、国内の経済が米中心になることを意味していた。ここから、幕府による農民への、情け容赦のない年貢の収奪が始まるのであった。
1603年になると、家康は征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開く。ここで、幕府の仕組みを覚えてほしい。
┏━大老(臨時に置く) ┃ ┏━大目付(大名の監視) 将軍━╋━老中(政務を統括)━╋━町奉行(江戸の町政) ┃ ┗━勘定奉行(幕府の財政・天領の監督) ┣━若年寄(老中を補佐)━━目付(旗本・御家人の監察) ┣━寺社奉行(寺院・神社の取締) ┗━京都所司代・大阪城代(朝廷・西国大名の監視)
以上の仕組みの特色は、@譜代大名・旗本が中心で、A合議制、B月番制、C司法・行政・立法の区別はないということ。
このように、幕府は体制を整える傍らで、豊臣秀頼にいちゃもんをつけて、大阪冬の陣・夏の陣(1615)で秀頼・豊臣氏を滅ぼした。
・大名を親藩・譜代・外様に分ける。親藩・譜代大名は重要地に配置し、外様は江戸から遠い所に、まるで鉢植えのように配置し、しかも幕府の要職からも除外した。
★KEY-POINT
将軍家光の時に制度化された参勤交代は、大名統制策の一つで、幕末まで続く。華美な大名行列や、江戸の大名屋敷の経営は大名の財政窮乏の原因となるが、江戸・宿駅の繁栄をもたらした。この他、大名に対しては「お手伝い普請」といって、土木工事を命じ、しかもその経費までも負担させるという鬼のようなことを幕府はやってのけたのである。
一方朝廷に対しては、京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(1615)をつくった。これは、天皇や公家の生活を細かく制限し、学問を勧めて政治から遠ざけようとしたものである。
また、キリスト教の禁教を徹底するために寺院が一般民衆を檀家として所属させ、キリシタンでないことを証明する寺請制度が設けられた。のちに宗門改帳(宗旨人別帳)といって、誰がどの宗派に属しているかを記載した帳簿が天領で始められたが、その後諸藩にも命じられ、戸籍の役割を果すようになった。
士農工商という言葉は聞き覚えがあるだろう。武士が一番偉く、その次に食物を生産する農民が、その下には物を作る職人、そいて最下位にはただ人の金を扱うだけで何も生み出さない商人が位置付けられた。しかし、これでは商人は納得がいかない。そこで幕府はどうしたのか。現在でも問題になっている被差別部落の祖先たち、穢多・非人が生み出されたのであった。「上には上がいる」の逆バージョン「下には下がいる」である。でもここで疑問がでてくるはず。穢多・非人の下は?これに幕府は見事な回答をしている。非人は人に非ずと読めるように人ではない。よって穢多の方が上になる。一方非人は「足洗い」・「足ぬき」をすると今までの身分に戻れるのである。こうして完璧といえる身分制度が確立するのである。
ここで、みんなが誤解しているであろうことに触れておこう。基本的には身分は世襲である。しかし、例外的ではあるが、農民から武士になったり、商人から武士になるケースは実際にあった。わずかではあるが、身分の移動は行なわれていたのである。
いくら武士が苗字・大刀を許され、身分的に一番偉いとしても、「百姓なしには君臨しえず」というのは事実であった。そこで幕府は色々な手段を用いて、できるだけ多く年貢を取り立てるために、農民を厳しく統制した。
★KEY-POINT
慶安御触書をみると、農民の生活について事細かにかかれているから農民統制令とみれるが、実際はこれ以外に、人糞尿の奨励とその使用方法なども書かれており、一種の農業技術書としての側面もあった。これは結局、米の生産量の増加に結びつき、幕府の年貢増徴につながることになるのだが…。
年貢は6公4民から、5公5民、4公6民へとだんだんと軽減されていくのだが、「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど出るものなり」と勘定奉行に言わせてしまうほど、農民は虐待されていたことがわかる。
ともかく、こうして二百五十年続く江戸時代が始まるのであった。
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