江戸の三大大飢饉(享保・天明・天保)の一つ天明の大飢饉は、主に東北地方を襲ったもので、人口の半数が餓死する藩が続出したほどであった。牛・馬・犬などは全て食べ尽くし、そのうえ死人を食べ、しまいには人を殺して生き延びた例さえある。この飢饉の最中、白河藩主であった松平定信は、江戸から非常食となりそうなものを大量に送り、一人の餓死者もださずにこの飢饉を乗り切った。そして、藩政改革にも成功し、幕閣達の目にとまることとなった。こうして松平定信は、老中として幕政の改革寛政の改革を指揮することになった。では、寛政の改革の内容をみてみよう!!
★KEY-POINT
この寛政の改革の結果と意義は、定信が以上の政策をかなり強行に進めたために不満が増大し、財政再建などの面では大した効果があがらず、崩れかけた幕藩制のほころびを繕って、その延命に大きく貢献した、ということになる。
松平定信の引退後、11代将軍の家斉は放漫な政治をした。要するにいい加減だったわけだ、政治に対しては。しかし、このいい加減さが化政文化を生んだ。化政文化の特色は、江戸の町人を中心とした文化であること。そして、身分の壁を破ることのできない民衆のやりきれない思いと飢饉などの社会不安から退廃的であった。
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それでは、具体的な内容をみてみよう。
天保の大飢饉が日本を襲い、今までの例に漏れず幕府は適切な処置を取らなかったために一揆や打ち壊しが頻発した。その中でも、最も幕府を震撼させた事件は大塩平八郎の乱である。この大塩平八郎は、元幕府の役人であり、そのうえに幕府の直轄地である大阪で乱を起こしたため、幕府の受けたショックははかり知れないものがあった。この乱そのものは、半日で鎮圧されてしまうほど小規模なものであったが、日本各地でその後におきた一揆で大塩平八郎の弟子を名乗る者が指導者となるなど、大塩平八郎の精神は百姓一揆の指導者の中に生き続けたのである。
まず、この忠邦が行なったのは「風俗取締」である。特に、女性に対しては厳しかったようである。浄瑠璃やかるたなどの遊びが禁止され、夜中の参詣も禁止され、服装までも制限した。どうしてこのようなことをしたのかはよくわからないが、とにかく厳しかったらしい。一方、真面目な政策面での業績なのだが、改革の三本柱が全てコケて、わずか二年で失脚しているのである、この忠邦は。その一つ目。人返し令に代表される農村復興&年貢確保策。度重なる飢饉や、百姓一揆などで農村の荒廃が進み、農村を捨てて都市部に流入してくる人が急激に増えたためにとった策であった。しかし、ほとんど効果がなか失敗。二つ目。「物価が高いのは株仲間の独占によるもの」という理由から行なわれた、株仲間の解散を中心とする商業統制策である。しかし、株仲間を解散させても物価は下がらず失敗。そして最後は上知令。江戸や大阪近郊の大名・旗本の領地を幕府の他の領地と交換して、幕府がおいしいところをもっていこうとしたもの。これに対しては、大名や旗本の反対だけでなく、町人や農民の反対に遭い、大失敗。こうして忠邦は、たったの二年で老中を罷免されるのであった。
17世紀までの日本の物作りは、原料集めから生産までを一貫して一人で行なう、家内制手工業というものであった。18世紀になると、貨幣経済の進展で農家の副業が盛んとなり、都市部の大商人や地主は農民に原料や道具を貸し与えて生産させ、製品を安く買い集めた。これを問屋制家内工業という。やがて商人たちは工場を建て、労働者を一ヶ所に集めて分業によって仕事をさせるようになった。この仕組みを工場制手工業(マニファクチュア)という。とっても大切なことだから、覚えといて。
まず、日本古代の人々の考えを知ろうと始まった、国学。本居宣長の「古事記伝」が超有名。一方、蘭学というのもある。こちらは杉田玄泊・前野良沢の「解体新書」が有名。発明で名を馳せた平賀源内、日本地図を完成させた伊能忠敬、男女平等・みんな農業しなきゃダメと封建制を批判した安藤昌益という人達がいた。
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