第17回 近代文化と欧米諸国のアジア侵略


◎「科学の世紀」といわれる19世紀

 ルネサンス以来、合理的な考え方が進み、実験や観察をもとにした自然科学が発達した。その基礎となったのが17世紀のイギリスの物理学者ニュートンが発見した「万有引力の法則」である。この発見がなければ、現在の我々の快適な生活はないのだが、同時に彼のおかげで「理科」という科目に悩まされるのである。などと泣き言を言ってはいけない。本題に戻ろう。この他に、電池を発明したり、ダーウィンのように「進化論」という生物は弱いものは自然に滅び、環境に最も適したものが生き延びて進化していくという物凄い発見をしたり、病院でお馴染みのレントゲンという人がX線を発見したりしている。まだまだこれだけではない。ラジウム放射能とかいうものを発見したキューリー夫妻や、完璧に理解している人は世界に数人しかいないとされているアインシュタインの「相対性理論」なんてのもある。凡人にはよくわからんが、とにかくとんでもない発見が数多くあった、すばらしい時代だったらしいょ、19世紀という時代は。これらが土台となって、前回学習した産業革命が進んでいくのであった。

◎人文科学も忘れてはならない!

 この時代以前の人間に対する考え方がよく解らないのだが、産業革命前後の時代の人文科学は人間中心の考えを基礎にして、合理的な考えも取り入れられた(らしい)。この合理的な考えとは何か。具体例を見てみよう。イギリスにフランシス=ベーコンという人がいた。この人は帰納法というものを考えだした。この帰納法とは、個々の具体的事例を検討することによって、一般的な原理を導きだす推論の方法。個々のスワンを見ていくことによって、「スワンは白い」という原理を立てるようなやり方。実は白くないスワンもいるが。一方、これに相反するものがある。フランスのデカルトが考えだしたもので、演繹法という。一般的原理から個別的事例に対する判断を導きだす推論の方法。例えば、「スワンは白い」と決めてかかれば、どのスワンも白いということになる。こういうやり方。当然帰納法と対立。ここらへんは高校で詳しく勉強すると思うよ。

 この他に、経済学の分野でも重要な考え方が誕生している。イギリスのアダム=スミスは、経済活動は自由であるべきだという「国富論」を著した。これが、自由主義経済の出発である。一方、ドイツのマルクスは資本主義経済を科学的に分析して「資本論」という、社会主義の理論を著した。これがいわゆるマルクス経済学である。旧ソ連の消滅によって、学問としての裏付けがなくなってしまった、悲しき学問である。

 最後に文学の変遷を見てみよう。ルネサンス記に始まる古典主義。17〜18世紀の絶対主義時代の文学で、ギリシア・ローマの古典を模範とした。次に流行るのがロマン主義。18世紀末から19世紀にかけて合理主義への反発としておこり、理性よりも、人間の自由な個性や感情を重んじた。その次は写実主義。19世紀の中頃から、自然科学の影響で事実をありのままに描こうとした。そして最後に自然主義。社会の変化によって深刻となった社会問題や人間の醜い面を直視し、それをえぐりだそうとした。

◎モンゴル帝国、再び!

 モンゴル帝国が衰退し始めた頃、モンゴル帝国の再興をめざしてチムールという、自称チンギス=ハンの子孫という者が挙兵し、オスマン−トルコを敗退させるなどして、西アジアの大部分を支配するチムール帝国を築きあげた。けれども、チムールの死後は国内が混乱し、一時は取り直したものの、支配下の諸民族の抵抗にあって1500年には滅んでしまったとさ。

◎16世紀、3大陸にまたがるオスマン−トルコ帝国

 トルコ人の祖先は中央アジアの遊牧民族であったが、外敵に圧迫され、西アジアへ移住して建国した。先述したチムール帝国との戦いで、一時は解体の危機に瀕したが、チムールの死後その勢力を急速に回復し、ビザンツ帝国を滅ぼし、東ローマ帝国をも滅ぼす(1453)までに至った。こんなわけでスレイマン1世のときにはアジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸の要の地を支配し、さらに地中海からインド洋に至る貿易もおさえておおいに繁栄した。しかし、この帝国も、支配下の諸民族の抵抗と、ヨーロッパ列強の侵略戦の下であっけなく姿を消していくのであった。

◎モンゴル帝国の懲りない面々がつくったムガール帝国

 16世紀になるとチムールの子孫と称するバーブルがインドにムガール帝国を建設した。ムガール帝国はイスラム教であったが、ヒンズー教徒の妃を迎えるなどしてイスラム・ヒンズー両教徒の融和政策を採り、インド繁栄の基礎を築いた。ちなみに、この帝国が彼の有名なタージ=マハルを建設した。妃の廟として造営したのだが、これは何故か世界の七不思議の一つとされている。この建設には20年の歳月と、常時2万人という職人と共に莫大な資金が投入された。一方で、農民に対する徴税は、これを機に50%増という負担を負わせていた。「砂から油をしぼる」と形容されている。様々な事があったわけだが、最後の皇帝に話を進めよう。この皇帝は何を血迷ったか、ヒンズー教徒を圧迫する政策を採用したのである。当然ヒンズー教との勢力が台頭し始め、ヨーロッパ列強の進出と共に弱体化していくのであった。

◎元⇒明⇒清、そしてヨーロッパ列強の下へ

 朱元璋は元軍を破り、洪武帝と称して即位した。これが明の始まりである。洪武帝は土地のない農民に対して土地を与えるなど、貧農出身の支配者として当時としては画期的な政策をとり、国家の税収を増大させた。一方で、自分の頭に毛がなかったために、又、かつて自分が貧しき僧であったために、禿や光・僧、そして僧と同じ発音の生・賊・則の字が目にとまると、その文章の作者を処刑するなどコンプレックスの強い側面を見せるガキのような人物でもあった。さて、時は進んで明の第14代皇帝万暦帝。彼には優秀な部下張居正がいたが、彼の死後奢侈逸楽にふけり、財政が赤字になった。又、戦争を各方面で展開し、戦費などの負担がすべて農民にまわってきた。さらに、飢饉にも見舞われ、民衆の反乱が起きた。この民衆を指導したのが季自成であり、明を滅亡させた。こうして清が誕生するのであった。だが……

 明は漢民族の王朝であった。しかし、清は少数派である満州族が漢民族を支配するという王朝である。推定人口では満州族は百万人、漢民族は四億人である。どうしてこのような支配が可能になったのだろうか。理由は簡単。明の官僚たちは、支配階級としての地位を維持しようとして満州族と手を結び、民衆の反乱を抑えたのである。だから、季自成は鎮圧されてしまったのである。整理しよう。明はの民衆の反乱を抑えきれなくなった。そこで明の官僚は満州族とグルになって、反乱を抑え、その代わりに満州族に清の実権を譲ったのである。

 その後、清はおおいに栄え?るのだが、結果として、ヨーロッパのような産業革命を迎えることはなかった。中国では、伝統を尊重する空気が強く、ヨーロッパからの学術を皇帝が取り入れなかったからなのだ。そのため、清もヨーロッパ列強のもとに下るのであった。

◎ちょっと小話

 ヨーロッパ列強のアジア侵略の歴史的背景とは何か。19世紀を通じて、ヨーロッパの大国は産業革命を達成していて、資本主義が発展していた。そのため、多くの原料を得るための原料供給地や国内だけではさばききれない大量の製品の販売市場を、海外に求めた。一方、アジアではオスマン=トルコ、ムガール帝国、清という3つの大帝国が順次繁栄し、その最盛期の国力や富は、ヨーロッパ諸国をしのぐものがあった。しかし、昔ながらの専制政治が行なわれ、近代化が遅れた。又、国内に多くいた異民族の反乱に悩まされた。そのため国力が衰えていった。さらに、人口がとっても多い。だから、市場としても有望であったのだ。こうしてアジアは、ヨーロッパ諸国の進出の的になったのである。

◎イギリスの餌食となったインド

 イギリスは、貿易上の競争相手であるフランスをプラッシーの戦いで破り、インドの進出を独り占めした。この間に、イギリスは産業革命を進め、大量の綿製品をインドに売り込んだ。その手段は、初めはインドの綿織物職人の指や腕を切り落とし、後半は採算を度外視した、現代の日本でいう価格破壊でインド市場のシェアを独占した。また、インドはイギリスの綿花と食料の供給基地にさせられたうえに、重税まで課せられていた。ここまでされると、堪忍袋の緒が切れてしまうのは人情というもの。とうとう、イギリスに雇われていたはずのインド人兵士(セポイという)が、イギリスに反旗を翻した。これをセポイの反乱(1857)という。これは2年後に鎮圧されてしまうのだが、インドの民族独立運動の出発点として重要な意義を持つ。さて、ここでムガール帝国が登場する。この帝国は、セポイの反乱に加担したとして、イギリスに滅ぼされてしまうのである。そして同時に、東インド会社を解散させ、インドをイギリスの直轄地にしたのである。こうして誕生したのが、インド帝国。初代皇帝は、なっなんとビクトリア女王・なんだってさ。

 この他にも東南アジアの国々は、欧州列強の植民地となっていった。17世紀には、フィリピンがスペイン領、インドネシアはオランダ領となった。19世紀になるとベトナム・カンボジア・ラオスがフランス領に、ビルマ・マレーシアがイギリス領となった。


★KEY-POINT

1857年のセポイの反乱を鎮圧したイギリスは、インドを直接支配下においた=ムガール帝国の滅亡


◎「眠れる獅子」は見かけ倒し!?

 ようやく最後の清が植民地になる時代に辿り着いた。対中国貿易は、イギリスの独壇場であった。シギリスからの輸出品はなく、中国から買う茶・絹・陶磁器の代金として銀を一方的に支払い続けた。この中国との取引が増えれば増えるほど、イギリスの銀が不足するようになった。そこでイギリスはインド産のアヘンという麻薬を中国に密売することで、銀の回収を謀った。しかし、これにはもう一つの戦略が隠されていた。当時から中国の人口は多く、この国が本気になって海外侵略をしたら、中国・清に勝てる国はないだろうというのが世界の常識であった。故に「眠れる獅子」等と言われたのだ。そこでイギリスはアヘンを清に広めることで、清の戦力の壊滅を狙ったのだ。麻薬が広まるのはまずいと考えた清は、アヘンの売買を禁止した。その中で、清の役人が、イギリスのアヘンを没収して焼くという事件がおきた。イギリスはこれを口実に清に宣戦布告をした。これが、アヘン戦争(1840〜42)である。この戦い、清の近代化の遅れが響き、イギリスの一方的な勝利におわる。こうして清は、南京条約という、不平等条約を結ばされるのであった。その中身とは★1:香港を英国に譲り渡す、2:広東・上海等5つの港を開港する(これまで清は鎖国政策をとり、広東港以外は開港されていなかった)、3:中国にいる外国人が罪を犯しても中国に裁判権がない治外法権を認める、4:輸出入品にかける関税率の決定権が中国にない関税自主権の放棄など、のちの日本が結ぶのと同内容であった。このアヘン戦争を通じて、眠れる獅子は実は起きることがないと見破られ、欧米列強による中国の植民地化が後に流行るのであった。

 アヘン戦争後の清は、アヘンが公然と輸入され、また、大量の外国産の安い製品が輸入され、清の工業は弱まっていった。また、イギリスへの賠償金支払いのために農民に重税が課せられたために清王朝に対する不満が一気に高まった。こうした中、洪秀全を指導者とする太平天国の乱が起きた(1851〜64)。太平天国は満州人の清を倒し漢民族の国家を回復し、貧富・男女の差のない理想の社会を建設することを目標とし、農民や労働者の支持を集め、一時は南京を占領し首都をたてたが、イギリスのゴードン率いる軍に鎮圧させられた。しかし、この事件は漢民族の民族主義運動という側面と、反植民地運動の出発点になったという歴史的意義があることも知っておこう。

 そして、最後にアロー戦争(1856〜60)。イギリスの船アロー号のイギリス国旗を清の役人が降ろしたことにいちゃもんをつけ、なぜかフランスも一緒になって清と戦火を交えたもの。当然清は敗れ、今度は北京条約というものを結ばされた。しかし、さらに不可解なことにロシアもちゃっかり北京条約に加わり、領土を広げたのであった。


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